人間は遊び心を持っているからこそ人間です。
ジョン・ホイジンガーは、「遊びの精神が人類の歴史を作った」とし、人間を遊びの動物=『ホモルーデンス』と呼びました。日本でも「遊びをせんとや生まれけん」というように、昔から、子供の自由な心、しなやかな遊び心を大切にしてきました。

この遊び心こそが人間を人間たらしめ、人類の創造性をおおいに刺激してきたのです。
今から150万年、ヒトを猿と分け隔てたのは、火と道具であり、その道具はやがて遊戯道具へと発展していきました。ちょっと遠回りですが、先ずは遊戯道具の歴史を世界史の中に見出し、次に盤上双六のルーツを辿り、最後に日本の絵双六の起源にアプローチしてみたいと思います。

途中、”さいころ”の原っぱや”絵巻物”の横丁で道草を食うかもしれませんが、それも一興であります。

双六の歴史

◆双六の世界史
紀元前3200年のウルの遊戯盤

双六は、いつ頃、どこの国で、どのように生まれたのでしょうか。
双六は、将棋、囲碁、チェスのように盤上遊戯として位置づけられます。盤上遊戯の最古のものの一つは、バグダッドのイラク国立博物館に展示されていました。(1990年の湾岸戦争で米軍機のよる空爆でこの博物館も被爆したとの報もあります。)

とりわけ、イラク南部のウル第三王朝の王墓から発掘された紀元前2600年頃の遊戯盤は、最も優美で精巧なものであり、「ロイヤルゲーム・オブ・ウル」と称されています。宝石が散りばめられ桝目や側面に幾何学模様や目の形の象眼がほどこされていました。

ゲーム史の研究の最も進んでいるイギリスで、近年この正確な遊び方が確認されました。I・フィンケル大英博物館西アジア考古学副部長によれば、「ウルの遊戯盤は、いわゆる二人対戦型のレース(競争)・ゲーム。コマを出発点から終点に向かって盤上の桝目で動かす。三角錘のさいころと、白黒各5個ずつの平らな円形のコマが使われた。例えば、さいころの目の2が出た時は、13番目の桝目に進むことができ、盤面上に5箇所あるロゼッタ模様の桝目に進むと、2回さいころをふることができる等かなり複雑なルールであった。」ということです。

バグダッドのイラク国立博物館には、ウル第一王朝(紀元前3200年頃)か、それよりも古いとされる遊戯盤もあるそうです。これは形状から茸型遊戯盤と呼ばれ、レース・ゲームの原型といえるものです。これらウルにルーツを発する遊戯盤は、パレスチナ、パキスタン、イラン等広範な地域で遊ばれていたことが判明しています。その形状は河馬形、蛇形、ラケット形と様々な変化し、彫りや装飾の技巧も精巧になってきています。

ツタンカーメンとセネト

1922年イギリス人ハワード・カーターによよって発見されたエジプト第18王朝の若きツタンカーメン王は、紀元前1352年頃に18歳で死去したとされています。

その豪奢な副葬品の中に4つの遊戯盤がありました。最大のものは、象牙と黒檀で作られた盤に、獣の脚を模した脚柱がつく品格ある美術品です。盤の桝目は、10の桝目が3列に並んだもので、古代エジプトでは「セネト」と呼ばれました。セネトとは、通過するという意味です。

ミュンヘン大学の研究によれば、最も古いセネトはエジプト初期の第一王朝(紀元前2950~2654年)の粘土ものでした。これも盤上に3×10の桝目が刻まれていました。
エジプト第三王朝(紀元前2654~2578年)時代のピラミッドにあるサッカラの彩色壁画には、セネトに興じる人の様子が描かれています。盤は箱型で3×10の桝目で、14個のコマで遊んだようです。
時代が下って第十八王朝の新王国の時代には、王や貴族だけでなく、平民や学生石工達にもこのセネトが流行しました。パピルスの上に桝目を線描きしたものも発見されていました。

さいころの起源

お腹のすいた人類が目の前の茸や河豚や青梅を食べようとした時、alternative=二者択一を迫られたことでありましょう。
悦楽の美味か恐怖の毒か?こんな時、歴史的必然を担って登場したのがさいころです。

つまり、初期のさいころは、人類の意思決定支援ツールであり、やがて「占い」という意思決定が体系化されたシステムに組み込まれていったのではないでしょうか。

アフリカのカメルーンでは、木の実を割って表か裏しかないさいころが発掘されています。アメリカ・インディアンは棒、三日月、円、椅子、動物の各型のさいころを使っていたようです。中国や朝鮮半島でユンノリと呼ばれる遊戯では、円筒を二つに割った4つの木片で5つの選択ができます。立方体のさいころは、インダス文明モヘンジョダロの遺跡から発見されていますが、1の裏が2、3の裏が4、5の裏が6になっていて、現在のさいころとは違っています。

日本で最古のさいころは、九州太宰府跡から出土した5×1cmの4枚の木片で、それぞれに1~4本の線が刻されていますが、どのように使ったかは不明です。立方体のさいころの最古のものは、宮城県多賀城跡で発見された700年頃の木製のもので、さいころの目は1~4までしか確認できていません。

さいころの持つ偶然性がゲームにおける参加者の対等性、公平性を担保しており、盤上遊戯に夢と興奮を与えています。

バックギャモンの盛衰

盤上遊戯の大衆化は、17世紀に入ってバックギャモンとして一つのピークを迎えました。
17世紀から18世紀にかけてイギリスでもっとも人気のあるゲームがバックギャモンでした。特に裕福な人々や聖職者が愛好していました。

1743年にはE・ホイルが遊戯法を整理し、現在のルールを定めました。最初にコマをボードに配置し、交互にサイコロを振って、自分のコマ15個全部を自分の右手前のインナーボードに集めて、順次「上がり」にして盤上から去って行きます。先に全部上がった方が勝ちです。
相手のコマが1個も上がらないうちに、味方のコマが全部上がった場合にはギャモン(勝ち)といい、得点が2倍になります。この時に、相手のコマが1個以上自分のインナーボードに残っているか、殺されている場合にはバックギャモン(逆転勝ち)になります。

やがてバックギャモンは欧州や米国の賭場で盛んに行われるようになりますが、チェスのように完全な頭脳性もなく、さいころやカードのような高い賭博性もなく、中途半端なゲームであったため、やがて、盤上遊戯としての主流から外れていきます。

中国の盤上遊戯

中国の遊戯盤は、競争ゲームでは、雙六(双陸)、シン・クン・ト(絵双六)、博(六博)、関などがありました。

包囲ゲームでは、囲碁が古い伝統を持っており、配列ゲームでは、ルク・ツ・キ(六目並べ)、格五(五目並べ)、サム・キ(三目並べ)がありました。中国将棋も後漢時代から存在していることが確認されています。

この中で記録上最も古いのは囲碁です。囲碁については「春秋左氏伝」(紀元前548年)に記述があり、高尚な頭脳ゲームとして王侯貴族・知識人に愛好されました。朝鮮においても囲碁の歴史は古く、「百済本記」の紀元475年の記載には王が国を滅ぼすほど碁好きであったとあります。

中国の双六は陸、雙六子、六采とも記され、その起源はインド(天竺)の波羅賽戯(はらさいぎ)にあり、三国時代の魏の曹植が始めたと言われています。

◆双六の日本史
日本の双六の起源

我国最初の歴史書である「日本書紀」には、持統天皇時代の689年に「禁断双六」と記述されています。禁裏向けか一般民衆向けかは定かではありませんが、賭博性のあった双六の禁止の布れが発せられていたことがわかります。

現存する最古の双六は、朝鮮から渡来した「木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)」で、正倉院北倉の御物として所蔵されています。

養老律令のうち757年に施行された律にも双六の記載があります。喪に服している期間中に行ってはならない雑戯として「双六囲某之属」とあります。また、「僧尼律」の中でも僧尼の博戯を禁じています。

しかし、双六は再三にわたって禁止されながらも、庶民に広まり、物語や古文書にも記されています。
醍醐天皇の輔弼であった文章博士の紀長谷雄(きのはせお・912年没)が、朱雀門の上で鬼と双六の勝負をし、紀長谷雄が勝って、美女を手に入れたという物語が、鎌倉時代末期の「長谷雄草紙」に描かれています。

このほか、「蜻蛉日記」「栄華物語」「大鏡」「今昔物語」「平治物語」「石山寺縁起絵巻」などにも双六遊びのことが記されています。「徒然草」には、双六上手の話しを引用して、兼好法師の蘊蓄が以下のように述べられています。

双六の上手といわれる人に、その心得を尋ねると「勝とうとして打ってはい けない。負けないように打つべきである。どの手だったら早く負けないかを思 案して、一目でも遅く負けるように手をつくすべきだ。」と答えた。身を治め 、国を保つ道もまたこのようである。

賽と盤の分離

盤上双六は、我国への伝来以来、普及と禁止の歴史を辿って近世に至っています。
そして、双六が近世に入って衰微した決定的なの理由は、さいころが盤から離れて即決性の高い賭博用具になったことにあります。かくて、双六はさいころ博打と系譜を分かち、盤上遊戯本来の温和な遊びに回帰していったのです。

江戸時代の文化文政期には、女子の芸事の一つにも認められ、大原芳蔵菊雄の「雙陸独稽古」(1811年)には、婦女の嗜み、双六作法ともいうべきほどにソフト化し、イメージチェンジした新時代の双六について以下のような記述があります。

女がひとたび縁があって嫁いだ場合には、調度として琴や双六盤を持っていくのが望ましい。(中略)ある豪家の娘が嫁入りして、双六盤の遊びを知らなかったので、赤面して恥じ入ったことがある。(心得として)客方に対しては、相手が駒を動かし終える前に、賽をとらないこと、盤の蔭で賽を振らないこと、賽を入れた筒を振る時は、帯より上の高さで振ること。盤外に落とさぬように賽を振ること。筒で駒を崩さないこと。筒口へ指をあてないこと。

「すごろく」という呼び名の由来

双六には、盤上双六と絵双六(紙双六)がありますが、両者はさいころを使ってコマ進めるという点以外は全く別の遊びと言っていいでしょう。しかし、両方を「すごろく」と呼びます。それでは、「すごろく」というネーミングの由来は何でしょうか。

盤上双六の双六は、伝来元である中国の雙陸の音を当てたもので、古代においては、須古呂久と記し、それがすごろくと呼ばれるようになりました。隻六というのも、盤上の桝目が1列に12あるところから、<2つの6>、即ち雙六になったわけです。しかし、絵双六を何故「すごろく」と呼ぶかについては大きな謎であり、定説はありません。

絵双六の誕生

絵双六の最初のものは、天台宗の新米の僧に仏法の名目を遊びながら学ばせるために考案された仏法双六だと思われます。 「名目双六」とも言います。墨版で、絵は描かれていません。
この仏法双六は、13世紀後半頃から用いられたのではないかと言われています。

そして、江戸時代に入り、絵双六が成立するに至って、全国の津々浦々まで普及することになります。

浄土双六は、宝永の頃が最盛期で、正徳には、衰退し始め、化政の頃には殆ど姿を消しました。浄土双六は、中国の選仏画を基盤として考案された勧善懲悪の双六で、上りは極楽浄土です。
面白いのは、「永沈(やうちん)の存在と機能です。「永沈」とは永久に沈むことで、絶望のことです。ここにコマが止まれば、即ゲーム資格がなくなります。後世、双六の「1回休み」の原形に当たります。この浄土双六により絵双六が確立し、一気に庶民化、多様化していきます。

これに拍車をかけたのが、当時世界一の多色刷木版技術つまり浮世絵技法で、ハード・ソフト両方の革新によって、役者・道中・名所・遊芸・武勇・庭訓・合戦等多くの双六のバリエーションが開発されました。

双六の種類

江戸時代には、仏法双六や浄土双六が庶民に普及し、双六の持つ情報伝達機能、教育啓蒙機能がおおいに評価されました。
やがて、双六に娯楽的要素が組み込まれ、双六の三大テーマである「道中」、「歌舞伎」、「風俗」が成立しました。

そして、明治時代に入り、印刷技術の向上、雑誌付録の誕生、流通販売ルートの確立と相俟って、双六のメディアとしての機能が一層強化され、実に多くの双六が流通しました。

双六の種類はおよそ以下のように分類することができます。

1)仏法・浄土双六
2)官位・出世双六
3)名所・道中双六
4)役者(野郎)・芝居双六
5)遊芸・音曲双六
6)歴史・合戦双六
7)武勇・戦争双六
8)女礼式双六
9)妖怪双六 
10)正月・節季双六
11)文明・開花双六
12)童話・童謡双六
13)滑稽・漫画双六
14)善悪・教訓双六
15)企業・宣伝双六
16)健康・衛生双六
17)政治双六
18)その他 

現在、大流行のコンピュータゲームにみられるロールプレイングやシミュレーションなどの表現手法の源流は、このような多彩で伝統的な双六に求められるのではないでしょうか。

双六と文学

◆双六と文学
絵双六のある風景

<館長より>
双六の季語は言うまでもなく「新年」です。
ここでは、双六を詠んだ俳句や短歌などを紹介してみたいと思います。それぞれの歳時記や関連書籍には「双六」に関する薀蓄が書かれていますので、それも併せて紹介します。 

双六に含まれるイメージは、「家族」「コミュニケーション」「子供」「親子」「人生」「お正月風景」「ハレの遊び」などでしょう。今ではすっかり過去のものとなったのではないかと思われるスゴロキアンも多いことでしょう。しかし、少年少女雑誌の正月号には、今でも必ずキャラクターものの双六が附録として付いています。これは何故でしょうか。きっと、「家族で双六遊びをしました。とっても懐かしかったです。」というお便りが毎年編集部に寄せられるからではないでしょうか。

私は毎年12月になると、近所にある書店の少年少女雑誌の附録をチェックします。ちょっと恥ずかしいですが、これも双六館館長としての責務と考えています(大袈裟ですね)。2001年の新年号には、「未来戦士タイムレンジャーすごろくあそび」(「月刊おともだち」・講談社 )や「ポケモンとんとんバトルすごろく<表面>」「ジェニーのおしゃれアップすごろく<裏面>」(「月刊小学1年生」・小学館 )などがありました。双六は今も健在なのです!  

さて、こんな双六を詠った俳句や短歌は古来たくさんあります。その中で私の一番のお気に入りは、この俳句です。

双六の花鳥こぼるる畳かな    橋本鶏二

この句は、大変艶やかでカラフルな句です。コレクションにある「春興はりまぜ双六」「初春書始双六」を見ながらイメージしてみてください。どうでしょう。少女の派手な振袖模様にも負けない、華麗な花鳥風月の双六が畳いっぱいに展開されています。明るく華やいだ双六遊びの風景が浮かんできます。この俳句は、絵双六が一番普及していた頃の俳句でしょう。コンピュータゲームでは、俳句になりにくいですよね。 

うさ忠が上がれぬ鬼平指南する大江戸春の役者双六

ところでこの短歌も気に入っています。鬼平とは池波正太郎の名作「鬼平犯科長」の主人公、江戸幕府火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらたがた)「長谷川平蔵」であり、うさ忠とは、平蔵の配下「木村忠吾」のことで、小説からイメージする場面を一首詠ったものです。

普段は厳しいボス(鬼平は 旗本であり、お殿様と呼ばれる身分であった)の鬼平だが、お正月だけは、ホット一息つける時です。鬼平はドジだけれども憎めないうさ忠を相手に選んで、私邸で双六に興じていたところ、うさ忠の前に一向に調子が出ません。一方、うさ忠はここぞとばかり、鬼平にあれこれ講釈・指南するのでありました。少し暖かな正月の午後、庭には膨らみかけた白梅の木、意気軒昂なうさ忠に、憮然とする鬼平。
襖の向こうでは、おせち料理の膳を用意しつつ、笑いをこらえている鬼平の妻久栄(ひさえ)。大きく広げられた絵双六は、「あたりきょうげん当狂言ふりわけ振分すごろく寿古録」、当節流行の役者双六だ。役者の当り役が扇面、雲型、短冊、色紙など21面のコマが藍地に丹念に描き込まれており、芝居好きの江戸っ子にはたまらない。沢村田之助の艶やかな女形や河原崎権十郎の渾身の大見得の姿が鮮やかに刷り込まれている絵双六とそれに興じる侍二人・・・大江戸初春の一風景です。

えっ、この歌、誰の作かって?それは、館長ですがな・・・!お後が宜しいようで・・・。

俳句に詠まれた「双六」

●絵双六と俳句

正月の子供の遊びの一つ。一枚の紙面に多くの区画を描き出し、数人にて順次に一つの骰子を振り、その骰子の出た目だけ「振り出し」から区画を進み、それを繰り返して、早く「上り」の欄に達した者を勝ちとする。
奈良朝以前に中国から伝来した双六は、盤上の区切りに黒白の石を並べ、一本の筒に入れた骰子二個を盤上に振り出して競う別種の競技で、 今日はほとんど行われていない。それよりはるかに後に起こった絵双六を現在は双六といっているのである。

(角川書店 「俳句歳時記 新年の部」より)

子供等に双六まけて老いの春   高浜虚子

芋賽の大いなるかなや絵双六   八木絵馬

双六や君が止まりに我も来し   安斎イ桜子

吾子等はやくはしきかなや絵双六 中村汀女

双六の賽の禍福のまろぶかな   久保田万太郎 

双六の花鳥こぼるる畳かな    橋本鶏二

ばりばりと附録双六ひろげけり  日野草城

仲見世の昼の灯あはし絵双六   古賀まり子 

双六の賽ころがりて袖の上    山口波津女

双六の賽掌に暖め家長の座 保知券二郎

● 双六・・・三省堂「ホトトギス新歳時記 改訂版」(編者:稲畑汀子)より

盤上の遊戯として起源は古く、遣唐使がもたらしたものといわれている。盤上に12画を区切りこれに黒白の石を並べ、賽2個を振って石を進め勝負を争うが、この双六盤はその後廃れ、その変形ともいえる絵双六として、浄土双六、陞官(しょうかん)双六、道中双六、役者双六などが中世、近世のころに盛んに行われていた。現在、双六といえば子供たちの遊びの絵双六のことである。

双六をしてゐるごとし世はたのし  国広賢治

双六のとびたる賽にみんなの眼   藤本朱作

双六の正しき折目敷き展べし    島田みつ子

出世して上がる双六ふと貧し    後藤比奈夫

双六の中の人生にも負けて     大槻右城 

祖母の世の裏打ちしたる絵双六   高浜虚子 

● 双六・・・成星出版「現代歳時記」(編者:金子兜太、黒田杏子、夏石番矢)より

双六は中国から伝来したものだが、現在、子供たちが遊ぶ双六は絵双六といい、中国式が変形したものである。さいころを振って、その目の数だけが駒を進め、早く上がった者が勝ちとなる。 

仲見世の昼の灯あはし絵双六    古賀まり子

子に負けてやる双六のむづかしく  嶋田一歩 

絵双六雪の匂ひのする夜なり    すずきりつこ 

双六をあがりたる手で猫掴む    大石雄鬼

ちちははの愉しき山を絵双六    関戸靖子      

短歌に詠まれた「双六

● 双六・雙六・・・教育社「古今短歌歳時記」(鳥居正博編)より

古くインドに起こるといわれ、唐から伝えられた遊戯。スグロクが古形。双六盤の中央に賽を置く場を設け、左右に12区分したマスに各15の黒白の駒をおいて、賽筒に入れた2個の賽を交互に振り出し、その目の数だけ駒を進め、敵陣に全部進めたら勝ちとする 。盤の大きさは一定せず、競技法にも本双六のほか色々あり、駒数や配列にも差異がある。

古くは「日本書紀(持統3年)に「十二月己酉の朔丙辰(しはすつちのとりのひのえたつのひ)に、双六を禁(いさ)め断(や)む」とあるように禁止されたのは賭博が行われたからである。
「万葉集」に二首見え、最初のは、「一二(ひちふた)・五六三(いつむつみつ)・四(よつ)」と訓む説もある。次のは「心の著く所なき歌」の一首で、わが妻の額に生えている双六の大きな鞍の上にできた腫れ物よ、といった意味のない歌である。
平安時代にも行われ、「枕草子」(140段つれづれなぐさむもの)に、「碁、雙六、物語」があげてあり、「源氏物語」(若菜下)などにも近江の君がすごろくを打つくだりがある。

中世にも双六は行われたが、江戸時代にはすたれて、文化文政(1804~1829)頃には見られなくなった。かわって「絵双六」が使われ始めた。初めは仏教の教義を教える「仏教双六」、のちに「浄土双六」となり、さらに「道中双六」などに変わっていった。明治以降は子供らの遊びとなった。絵双六は大きな紙に絵を一区画ずつに作り、さいころを振ってその目の数だけ振り出しの出発点から、最終のあがりまで、到着の早さを競った。

古歌例は少なく、「源順(みなもとのしたごう)集」に「双六番のうた」があり、句頭句尾に「す・く・ろ・く・い・ち・ば・」を尻取式に詠みこんでおり、小沢蘆庵も「拾遺集」の歌を最初に掲げ15首をあげているのは、盤上の桝目に宛てたものと想像される。「すぐろく市場」は、語義が明確ではないが、市場は人の集まる盤上を意味したものででもあろうか。
近世句に建部巣兆(そうちょう)の「曽波可理(そばかり)」(1870刊)に、「双六の六部に逢はん宇都の山」があるが、道中双六を詠んだもの。虚子の「五百五十句」(1943刊)に「双六に負けておとないく美しく」もある。俳句季語は新年。近代歌もあろうが、見当たらない。

<万葉集>

一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり雙六(すぐろく)の采(さえ)
(万葉集・16・3827) 作者未詳 

我妹子(わぎもこ)が額(ぬか)に生(お)ひたる雙六(すぐろく)の牡牛(ことひのうし)の鞍(くら)の上の瘡(かさ)
(万葉集・16・3838) 安倍子(あべのこ)祖父(おじ) 

<源 順(みなものとのしたごう)集>

するがなる冨士の煙も春立てば霞とのみぞ見えてたなびく(源順集52)

くさしげみ人もかよはぬ山里にたがうちはらひつくるなはしろ(源順集53)

ろくろにや糸もひくらん引きまゆの白玉のをにぬけとたえぬい(源順集54)

ちりもなきかがみの山にいとどしくよそにてれみれどもあかぬもみぢば(源順集55)

<拾遺集>

雙六(すぐろく)の市場に立てる人妻の逢はでやみなむものにやはあらぬ
(拾遺集・雑恋・1214)よみ人しらず 

<六帖詠草・雙六(すぐろく)の歌 /小沢蘆庵(ろあん)>

寿(す)まのうら初瀬の山もへだてなく春の霞はけさやたなび具(く) 

具にぐにになだたる所多かれど花は都の春のやまし呂

呂うこくの程もなくのみもりて夜はた手(た)枕のあにあくる夏の似(い)

似(い)ちじるく露置きそめてこの朝明(あさけ)来る秋見ゆる庭のかよひ知 

知ぢの秋ひとつの月のゆきかへりかはらじみよをめぐる光波(は)

<声また時/武田弘之>

人ふたり双六あそびを楽しめるありのままなるさまを彫りたり 

●すごろく・・・飯塚書店「短歌表現辞典 生活・文化編」(編集部編)より

弟(おと)の児(こ)が小さき手に振る双六の賽よくいでてひとり勝ちつぐ        窪田章一郎

古典と「双六」

●3回ニューテクノロジー振興財団懸賞論文

優秀賞 X. J. Yang 氏(当館の監修・アドバイザーの楊 暁捷先生です)  
名論文   "文化・遊び・「すごろく」"を是非お読みください!!

● 盤双六が登場する古典

盤双六(本双六)は、非常に賭博性の強い遊びで、4~5世紀頃、中近東、中国、朝鮮半島を経て日本列島に根をおろした遊戯で、中世から近世にかけての歌集文学作品のなかで、盤双六遊びの描写のない作品はほとんど存在しないといってよいほどである。

「万葉集」は いうまでもなく、「宇津保物語」「蜻蛉日記」「源氏物語」「栄花物語」「今昔物語」「吾妻鏡」 「宇治拾遺物語」「平治物語」「古今著聞集」「徒然草」「長谷雄草子」「下学集」「湊川物語」「ト養狂歌集」「好色一代男」「鹿の巻筆」「西鶴置土産」等、枚挙にいとまがない。いかにこの遊びが人心をつかんでいたかは想像していただけると思う。

(「双六遊美」山本正勝氏著(芸艸堂)より )

大正ロマンと絵双六

◆大正ロマンと絵双六
大正ロマンとは

大正ロマンとは、主に大正時代(1912~1926年)に流行した、日本とヨーロッパのデザイン様式の融合によってできたモダンでロマンチックな文化のことを言います。

その領域は、絵画・挿絵、建築、家具にとどまらず、モダンボーイ ・モダンガール、カフェなどで表されるように広く社会風俗にまでも及びました。大正ロマンで表現されたものは、 憂いある甘美な女性の姿、洗練された都会の生活、西洋文化と日本の伝統美の融合、リベラルアーツを重視した 教養主義・・・など旧来にない新しい時代の大衆の願望であり美意識でした。

大正ロマンを支えた出版文化

大正ロマンを支えたのは、当時の出版文化です。明治時代の後半~大正時代~昭和初期には、少年・少女雑誌、同人誌、 書籍などの印刷メディアが百花繚乱の如く発行され、その影響力は日本の津々浦々にまで浸透しました。

このことは、これらの書籍・雑誌の表紙や挿絵や付録を通じて、多くの作家に活躍の場が与えられたことを意味します。
竹久夢二、中原淳一、鏑木清方、伊東深水、高畠華宵(たかばたけかしょう)等をはじめ川端龍子、蕗谷虹児、蛭田時彦、 森田久、藤本斥夫、武田比佐、須藤しげる、林唯一、田中比佐良などは近代出版文化の繁栄によって、仕事が与えられた もともいえます。

浮世絵と双六の関係

最初の絵双六は、13世紀後半頃に天台宗の新米の僧に仏法の名目を遊びながら学ばせるために考案された仏法双六だと言われています。江戸時代に入り、絵双六として本格的に全国へ普及することになります。

当時の多色木版摺りの技術は世界最高水準であり、それは浮世絵の技法によって支えられていました。
しかし、浮世絵の出版はリスクの多い事業でもありました。当たり外れの多い役者絵(ブロマイド)などの浮世絵事業のリスクの高さに困っていた版元は、正月の定番ものとして、ちょっとした知識人の読み物として、絵双六を捉えたのではないでしょうか。

つまり浮世絵事業の安定化策として絵双六市場に注目し、浮世絵師に 絵双六も描かせた。その結果、多くの絵双六が作られたのではないかというのが筆者の仮説です。

江戸時代には、師走に「双六売り」という仕事があり、「新版かはりました道中双六・・」、 「道中双六おたからおたから・・・」と、売り声を大江戸に響かせていたとの記録もあります。
新版の双六を出し、毎年庶民に買い換える習慣を根付かせる戦略は、江戸の版元のマーケティングが正しかった ということです。

明治以降、次第に浮世絵は衰退しますが、絵双六は今日に至るまで連綿と続いています。
多コマ割りした絵双六は、浮世絵以上の企画力・アイデアと彫りの技術と摺りの技術を要したものでした。
マニュファクチュアの典型的でもある絵双六は、爛熟した江戸の大人文化の産物でもあります。

江戸時代に絵双六が庶民に普及した主要な理由の一つに、双六の持つ情報伝達機能、教育啓蒙機能、娯楽機能 がおおいに評価されたことが挙げられます。その結果、多くの双六のバリエーションが開発されました。

※双六の種類については、上記《◆双六の日本史》の「双六の種類」を参照ください。

大正ロマン絵双六の価値

双六は時代の価値観を鋭く映すことから、各時代の風俗、夢と憧れ、海外事情などが誰にもわかりやく描かれていました。
その一方で、明治維新から太平洋戦争の終焉までは戦争の歴史でもあり、暗い世相や国家思想を反映した双六も多く、良妻賢母教育、軍国少年教育などにも利用されてきた経緯があります。

そのような双六コンテンツの歴史の中で、大正ロマン時代の双六は自由で華やかであり、ひと際異彩を放っています。
特に少女雑誌の付録で取り上げられた双六は、優美で感傷的な筆遣いと淡く流麗な色遣いで描かれており、現代にも通用する芸術性を持っています。今日で言う”癒し”の効果をその時代に与えているようにも思います。
双六のコレクターとして、大正ロマンの絵双六に大きな価値を与えたいと思い、当サイト「双六ライブラリー」に展示いたしました。

大正ロマン絵双六の選定基準

双六コレクションの中から以下の基準で大正ロマン絵双六ベスト20を選定しました。→「双六ライブラリー特別展②」に展示中です。

1)大正ロマンの特徴を持つ双六であること
2)大正時代及び昭和初期に制作された双六であること
3)保存状態が比較的良いこと

※結果的に少女雑誌の付録の双六になりました。


*参考文献
増川宏一氏 「盤上遊戯」「すごろくⅠ」「すごろくⅡ」(法政大学出版局)
山本正勝氏「双六遊美」(芸艸堂)
小西四郎 寿岳章子 村岸義雄各氏「双六」(徳間書店) 
高橋順二氏編「日本絵双六集成」(柏美術出版) 
米田雄介「正倉院宝物の故郷」(大蔵省印刷局) 

*参考文献・サイト(大正ロマンと絵双六)
<書籍>
江戸の生業事典(渡辺信一郎 東京堂出版)
<サイト>
菊陽町図書館(日本一の少女雑誌コレクション)
我が国における『少女雑誌』の誕生と変遷  『中京女子大学子ども文化学研究 第9号』(中京女子大学子ども文化研究所/02.03発行) 
大衆少年雑誌の成立と展開 ―明治期「小国民」から大正期「日本少年」まで―
「国文学」第46巻6号 2001年5月号(2001.5.10 学燈社