大正ロマンと絵双六

■浮世絵と双六の関係

最初の絵双六は、13世紀後半頃に天台宗の新米の僧に仏法の名目を遊びながら学ばせるために考案された仏法双六だと言われています。江戸時代に入り、絵双六として本格的に全国へ普及することになります。

当時の多色木版摺りの技術は世界最高水準であり、それは浮世絵の技法によって支えられていました。
しかし、浮世絵の出版はリスクの多い事業でもありました。当たり外れの多い役者絵(ブロマイド)などの浮世絵事業のリスクの高さに困っていた版元は、正月の定番ものとして、ちょっとした知識人の読み物として、絵双六を捉えたのではないでしょうか。

つまり浮世絵事業の安定化策として絵双六市場に注目し、浮世絵師に 絵双六も描かせた。その結果、多くの絵双六が作られたのではないかというのが筆者の仮説です。

江戸時代には、師走に「双六売り」という仕事があり、「新版かはりました道中双六・・」、 「道中双六おたからおたから・・・」と、売り声を大江戸に響かせていたとの記録もあります。
新版の双六を出し、毎年庶民に買い換える習慣を根付かせる戦略は、江戸の版元のマーケティングが正しかった ということです。

明治以降、次第に浮世絵は衰退しますが、絵双六は今日に至るまで連綿と続いています。
多コマ割りした絵双六は、浮世絵以上の企画力・アイデアと彫りの技術と摺りの技術を要したものでした。
マニュファクチュアの典型的でもある絵双六は、爛熟した江戸の大人文化の産物でもあります。

江戸時代に絵双六が庶民に普及した主要な理由の一つに、双六の持つ情報伝達機能、教育啓蒙機能、娯楽機能 がおおいに評価されたことが挙げられます。その結果、多くの双六のバリエーションが開発されました。

※双六の種類については、「双六の種類」を参照ください。

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