双六の歴史

■日本の双六の起源

我国最初の歴史書である「日本書紀」には、持統天皇時代の689年に「禁断双六」と記述されています。禁裏向けか一般民衆向けかは定かではありませんが、賭博性のあった双六の禁止の布れが発せられていたことがわかります。

現存する最古の双六は、朝鮮から渡来した「木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)」で、正倉院北倉の御物として所蔵されています。

養老律令のうち757年に施行された律にも双六の記載があります。喪に服している期間中に行ってはならない雑戯として「双六囲某之属」とあります。また、「僧尼律」の中でも僧尼の博戯を禁じています。

しかし、双六は再三にわたって禁止されながらも、庶民に広まり、物語や古文書にも記されています。
醍醐天皇の輔弼であった文章博士の紀長谷雄(きのはせお・912年没)が、朱雀門の上で鬼と双六の勝負をし、紀長谷雄が勝って、美女を手に入れたという物語が、鎌倉時代末期の「長谷雄草紙」に描かれています。

このほか、「蜻蛉日記」「栄華物語」「大鏡」「今昔物語」「平治物語」「石山寺縁起絵巻」などにも双六遊びのことが記されています。「徒然草」には、双六上手の話しを引用して、兼好法師の蘊蓄が以下のように述べられています。

双六の上手といわれる人に、その心得を尋ねると「勝とうとして打ってはい けない。負けないように打つべきである。どの手だったら早く負けないかを思 案して、一目でも遅く負けるように手をつくすべきだ。」と答えた。身を治め 、国を保つ道もまたこのようである。

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